陰陽座、浜田麻里に続いて、日本の女性ヴォーカルロックの草分けであるカルメン・マキについて紹介します。
今回は、主にバイオグラフィーを紹介していきたいと思います。
①初めに
カルメン・マキについてはリアルタイム時に名前だげは知っていました。
しかし、実際に聴く機会がなくCDを買って聴いたのはごく最近です。
実際に聴いてかなり衝撃をうけました。
カルメン・マキすごいぞ、これだけ情感をもって力強く歌えるヴォーカリストが現在の日本にはたしているだろうか。
まさにこれぞ女性ロックヴォーカル。
まさに、ジャニス・ジョップリンとアン・ウィルソンを足して二で割ったような歌声。
なぜ、いままで聴き逃していたのだろうか?カルメン・マキこそ、日本での女性ロックヴォーカルの元祖だと思いました。
多分、今の若い人はカルメン・マキのことを知らないと思いますので、若い人にも知ってもらいたいと思いまして、紹介しようと思いました。
①バイオグラフィー
1)歌謡曲歌詞としてデビュー~ロックへの転向
1951年に、アメリカ人の父と日本人の母との間に、神奈川県鎌倉市に生まれました。
1968年に高校を2年時で中退し、寺山修司が主宰していた劇団「天井桟敷」に感銘し、
入団しました。
その初舞台は「書を捨てよ町にでよう」で、その時にCBSソニーの関係者の目に留まり、
1969年に、代表曲でもある「時には母のない子のように」でデビュー。
17歳とは思えない妖艶な雰囲気と歌唱力。哀愁のある歌いっぷりが話題となり、ミリオンセラーの大ヒットを記録しました。
また、「時には母のない子のように」の他にも「山羊にひかれて」や「私が死んでも」「戦争は知らない」と言ったヒット曲を出しました。
しかし、1970年に、彼女はジャニス・ジョップリンを聴き、感銘を受け、ロックへの転向を表明します。
まず、近田春夫、立川直樹らと「カルメン・マキ&タイムマシーン」を結成しまが、すぐに解散します。
ギタリスト竹田和夫率いるブルース・クリエイション(第2期)に落ち着き、1971年、コラボレーション・アルバムである「カルメン・マキ&ブルース・クリエイション」を発表します。
2)カルメンマキ&OZ
1972年に、ギタリストの春日博文らと主に、「カルメンマキ&OZ」を結成しました。
メンバーはマキ、春日、鳴瀬喜博(ベース)樋口晶之(ドラムス)です。
最初は、キャバレー回りを事務所から強要されるなど、順風満帆とは言えませんでしたが、
1974年にポリドールからシングル「午前一時のスケッチ」でデビュー。
1975年にはファーストアルバム「カルメンマキ&OZ」を発表しました。
また、同年、グランド・ファンク・レルロードの来日公演(そう、あの伝説となった来日公演です)のオープニング・アクトを務めました。
1976年に「閉ざされた町」を発表しました。ロサンゼルスで録音されたこともあり、ファーストに比べ、若干スタイリッシュな作りとなっています。
翌年の1977年10月18日の新宿厚生年金会館でのステージを最後に解散。同年12月のサード・アルバム「Ⅲ」をリリースしました。
3)OZの解散後~活動休止
OZの解散後、渡米し、ソロアルバム「NIGHT STALKER」を作成したり、
「カルメン・マキ&LAFF」を結成したりしたが、OZほどの成功は得られず、
1980年に薬物禍があったこともあり、活動休止を余儀なくされました。
1986年に「うるさくてゴメンねBAND」に参加しましたが、それから間もなく、出産、育児に専念するため、音楽活動の休止を宣言しました。
4)復帰~現在まで
1993年に日本国籍を取得し、音楽活動を再開しました。
子守歌のアルバム「MOON SONGS」を発表。
翌1994年には「MOSES」を結成し、1995年に「VOICES OF MOSES」を発表しました。
1996年には、春日博文のプロデュースによる「UNISON」を発表。
この時のセッションメンバーをもとに「UNISON UNIT」を結成し、ライブを中心として活動しました。
1998年には「SPLIT」を発表しました。
2000年にはライブツアーを行い、翌年にはライブ盤『CARMEN MAKI LIVE 世紀末を歌う』をリリースしました
2003年には鬼怒無月らとともに「CARMEN MAKI & SALAMANDRE」を結成。また同年に同名のアルバムをリリースし、ライブ活動もおこないました。
2004年には全曲アコースティックのアルバム「ANOTHER WAY」を発表し、現在もライブハウスを中心に精力的にライブ活動を行っています。
カルメン・マキ おすすめアルバムに続く
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