フリートウッド・マック バイオグラフィー(70年代後半の躍進~現在)

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続いて、フリートウッド・マックについて紹介します。
今回はスティーヴィー・ニックス加入以降のバイオグラフィーを紹介します。

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①スティーヴィー、リンジー加入~大躍進による世界的成功へ

ボブ・ウエルチ脱退により、バンド最大の危機となり、残されたミックとジョンは後任のフロントマンを必死でさがします。

そのとき、バッキンガム・ニックスというアメリカ人の男女デュオのデモ作品を耳にしました。
そこで、リンジー・バッキンガムのギターとヴォーカルが気になったミックとジョンは、1974年の12月にリンジーに連絡し、フロントマンとして加入を要請しました。(その当時、リンジーのパートナーであったスティーヴィー・ニックスはミックとジョンにとって眼中にありませんでした)
リンジーとしては、スティーヴィーと一緒の加入であるならばOKということで、結局2人とも加入しました。

それが、新たなケミストリーを生み出し、大躍進します。
また、それがアダルト・オリエンティッドなソフト・ロックへ音楽性へとシフトするきっかけとなりました。
リンジー、スティーヴィー、クリスティン一人一人が作詞作曲ができ、さらにヴォーカルもとれ、さらに絶妙なハーモニーで魅了させるというスーパーバンドとなりました。

1975年、スティーヴィー、リンジー加入後初となるアルバム「ファンタスティック・マック」は、500万枚のセールスを生み出し、初の全米チャート一位となりました。
そして、1977年、歴史的名盤となる「噂」をリリースします。このアルバムは単にフリートウッド・マックしての最高傑作としてでなく、70年代洋楽を代表する名盤、また女性ヴォーカル・ロックを代表する名盤といえましょう。
女性ヴォーカル・ロックファンで、これを聴いていないようでは話にならないとまで思ってしまします。

セールス面でも、全米ビルボードアルバムチャートにおいて、31週連続1位という金字塔を打ち立て、この年の年間アルバムチャートの1位にも輝いています。
現在までの累計でも少なくとも、4000万枚は超えています。

しかし、バンドとしては、大きく飛躍しましたが、私生活では大きな悩みやトラブルを抱えていました。
まず、ミック・フリートウッドは、妻ジェニーと離婚、ジョン&クリスティンのマクヴィ夫妻もしだいに不仲となり、離婚しました。
そして、長年恋人同士だった、リンジーとスティーヴィーも破局を迎え、バンド内の人間関係はこれ以上ないほど最悪でした。

そんな緊張関係の中で制作されたのが、彼らの名声と地位を不動にした「噂」でした。
メンバーそれぞれが私生活に問題を抱え、欝々とした思いを全て音楽作品に昇華したことが、結果的に最高傑作となったのだと思います。

②80年代の活動

この後、1979年に、初の2枚組のアルバム「牙 (タスク)」を発表しました。
「噂」の後ということもあり、それと比較され、評価は芳しくなかったものの全米4位となりました。

続いて「ライブ」を発表しました。そのあと、リンジーとスティーヴィーはソロ活動を開始し、それぞれ成功をおさめました。
それからメンバーが、フランスに集結して「ミラージュ」を制作し、1983年に発表しました。
セールスも全米一位と健在ぶりを発揮しました。

しかし、「ミラージュ」の発表後、リンジーとスティーヴィーのそれぞれのソロ活動が活発となりました。
また、メンバーの私生活でのトラブルも多発しました。
まずは、スティーヴィーの薬物依存、ドラッグ中毒による、厚生施設への長期入院しました。
またミック・フリートウッドも私生活でのトラブルより、薬物とアルコール依存となり、ついには破産してしまいます。
栄光の陰に、そのような暗い面があったのです。

上記により、活動休止に状態になっていましたが、メンバーが久しぶりに結集し、1987年に全盛期最後のアルバムといわれる「タンゴ・イン・ザ・ナイト」を発表しました。
アルバム的には、全米7位にとどまったものの、シングルカットされた曲はすべてスマッシュヒットするなど、健在ぶりをアピールしました。

③主要メンバーの離脱~低迷期へ

「タンゴ・イン・ザ・ナイト」を発表後、リンジーが脱退しました。
つまり、そのアルバムのツアーはリンジー抜きで、新メンバーとしてリック・ビトー、ビリー・バーネットのギタリスト2名を加えた新編成で行われました。
クリスティンとスティーヴィーを前面にだし、リンジーをカバーしようとしていました。
1990年、今度はクリスティンとスティーヴィーがバンドのライブツアーに参加しないことを表明しました。
同年、アルバム「ビハインド・ザ・マスク」を発表しましたが、全米18位と振るわず、ファンタスティク・マック以来続いていたゴールドディスクも逃してしまいました。

1992年、クリントン大統領選挙キャンペーンソングに「ドント・ストップ」が採用されたことから、全盛期のメンバー5人が一時再結成のライブを行いましたが、すぐに離散し、同年末、スティーヴィーも脱退してしまいます。

1994年、新メンバーとして、ベッカ・ブラムレット(デラニー&ポニー元夫妻の娘)とデイブ・メイソンを加え、ライブ・ツアーを行い翌1995年にアルバム「タイム」を発表しましたが、不発に終わりました。
その直後にクリスティンまで脱退し、活動休止となりました。

④そして、再始動へ

1997年、リンジーのソロアルバムのレコーディングにミックが参加したことにより、全盛期のメンバーが再結集し、ツアーを行いました。そのライブでもライブアルバム「ダンス」を発表し、全米一位に輝きました。
1998年にはロックの殿堂入りを果たしまたが、クリスティンが引退を理由に再度脱退しました。
2003年にクリスティンを除く全盛期のメンバー4人によるアルバム「セイ・ユー・ウイル」を発表し、全米3位となりました。
2014年にクリスティンが復帰し、ワールド・ツアーを行い、2015年には新アルバム作成に着手しまして、目下レコーディング中です。

2018年7月23日追記
2018年の秋から行われるワールドツアーの前、リンジーがバンドから離脱し、代役にマイク・キャンベル(元トム・ペティ&ハートブレイカーズ)とニール・フィンが加入しました。


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