ケイト・ブッシュ バイオグラフィー

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今回はひき続き、女性アーティストの紹介シリーズで、70年代終盤にデビューした、孤高のアーティストであるケイト・ブッシュについて紹介します。
そこで、今回の記事は主にバイオグラフィーを紹介していきます。

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①はじめに

私が、中学3年の時、デイブ・ギルモアに見いだされた、ケイト・ブッシュという女性アーティストがデビューしたという情報は聞いていましたが、実際に聴くまでには至りませんでした。
ある日、渋谷陽一氏がDJを務めるFMの番組で、初めて嵐が丘を聴いた時、なんて独特の歌声なんだろう、なんていい曲なんだろう。とても18歳の少女が作った曲とは思えない。おまけにケイトは美人だし、ということで興味を持ち出しましたが、アルバムを買うにはいたりませんでした。

2002年にロック音楽リスナーに復帰して、女性ヴォーカル・ロックに興味がわいてくると、ケイト・ブッシュもCDを集めて聴く用になった次第です。

②バイオグラフィー

1)デビュー前

ケイトは1958年7月30日にロンドンで、父が医者、母が看護師という比較的裕福な家に生まれ、また、父はピアノが堪能、母がアイリッシュ・フォークの元ダンサー、兄達も音楽に関わリがあるという音楽一家で育ちました。
彼女が音楽に興味を持ちだしたのが、1968年頃で、父からピアノを習ったり、グラマー・スクールに通う頃になると、曲や詩を書き溜めたり、ヴァイオリンなどにも精を出すようになります。

1974年に本格的に音楽の道へ進むことを決意し、学校を中退し、音楽制作に専念するようになります。
また1976年にパントマイムを習い、1977年にレコーディングをしました。

2)デビューから90年代

1977年、エミリー・ブロンテの小説「嵐が丘」からインスパイヤされた「嵐が丘」でデビューし、全英4週連続一位という栄冠に輝きました。
また、1978年、「嵐が丘」を収録したデビューアルバム「天使と小悪魔」を発表。40万枚のセールスを記録します。・
さらに同年、セカンド・アルバム「ライオン・ハート」を発表しました。
その頃から、アルバムのプロディースも自分で行いたいと思う様になりました。
その結果、1980年発表のサード・アルバム「魔物語」では共同プロディース、1982年の「ドリーミング」では初のケイト自身の単独プロディースとなりました。
1986年には初のベストアルバム「ケイト・ブッシュ・ストーリー」を発表。

活動に一区切りつけ、1989年にはアメリカ進出を狙った「センシャル・ワールド」を発表して、ようやくアメリカでもメジャーになりました。
90年代にはいり、1993年に「レッド・シューズ」を発表。ジェフ・ベックやエリック・クラプトン、プリンスなどが参加していて、話題になりました。
それ以降、単発的な活動はあるものの、アルバム発表がない状態で90年代を終えました。

3)00年代でのシーンへの復帰から現在へ

90年代後半以降は、出産、子育ての時期で、事実上活動休止していましたが、2005年11月に二枚組のアルバム「エアリアル」が発表されました。
第一弾シングル「キング・オブ・ザ・マウンテン」がイギリスのチャート4位を記録するなど、健在ぶりを示しました。
2011年、「センシャル・ワールド」、「レッド・シューズ」をセルフカバーした「デレクターズ・カット」を発表しました。
イギリスのチャート4位を記録しました。同年11月に全曲新曲である「雪のための50の言葉」を発表しました。

2013年4月大英帝国勲章CBEを受賞しました。

2014年8月ロンドンで22日間に渡るコンサート「ビフォー・ザ・ドーン」を開催し、過去のアルバムがすべてイギリスのチャートインするという、イギリスでの根強い人気と支持を示しました。
2016年12月、そのライブの収録したライブアルバム「ビフォー・ザ・ドーン」を発表しました。

ケイトブッシュ おすすめアルバムに続く


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