ジェファーソン・スターシップ~スターシップ

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ジェファーソン・エアプレインから続いて、ジェファーソン・スターシップ~スターシップのバイオグラフィー、ディスコグラフィーを紹介していきたいと思います。

①バイオグラフィー

(1)ジェファーソン・スターシップ発足~全盛期へ

ポール・カントナー、グレース・スリックを中心にしたプロジェクトを母体として、ジェファーソンエアプレイン解散後、1974年正式にジェファーソン・スターシップとして発足しました。

メンバーは、ポール・カントナー、グレース・スリック、ディヴィッド・フライバーグ、パパ・ジョン・クリーチ、ジョン・バーベイタにギタリストとして、クレイグ・キャチーソ、ベーシストとしてピート・シアーズが加入しました。

そこで、ファースト・アルバム「ドラゴン・フライ」が作成されました。

翌年の1975年、マーティ・バリンが復帰し、「レッド・オクトパス」を発表し、エアプレイン以来初の全米一位となりました。シングルでも「ミラクルズ」が全米3位となり、バリン/スリック/カントナーのコーラスワークも新しいバンドアンサンブルに載せて、人気グループの座を奪還しました。

成功の要因はバリン/スリック/カントナーがそろったこともありますが、新メンバーである、クレイグ・キャチーソやピート・シアーズが手腕を発揮し、その時代にあった音楽を作りだせたことです。

この体制での全盛期でマーティ・バリンの存在感が大きくなり、マーティーにとってようやく理想のバンドとなった感じがあります。

(2)メンバーチェンジ~産業ロック路線への変更

まず、グレースが精神的に不安定な状態におちいり、ドラッグ中毒となり、1978年にバンドから離脱しました。

また、ドラマーのジョン・バーベイタが自動車事故で活動できなくなり、代わりにさすらいの鉄人ドラマーエインズレー・ダンバーが加入します。

そこで、バンドとして、ラブ・バラード等を極力減らしてより強力な音楽でイメージチェンジを図ることを決めましたが、それに反対したマーティ・バリンが脱退。代わりにミッキー・トーマスが加入し、ハードロック路線なり、それを反映した「フリーダム・アット・ポイントゼロ」を発表しました。60年代からのファンからは産業ロック指向だと否定的な評価を受けました。

その延長線上で創られた、1981年の「モダン・タイムス」にはグレイス・スリックがゲストとして参加、さらに1982年の「ウインド・オブ・チェンジ」では正式復帰しました。

しかし、レコード会社は産業ロック/スタジアム・ロック的なヒット曲を要求し、さらに1960年代以来のベテラン・アーティストに厳しい対処をするようになりました。その結果として、ジェファーソンらしい音楽は急激に失なわれ、メンバー間の対立も深刻になりました。

より若いターゲットに向けてコンテンポラリーなMTV路線を志向するようになったミッキー・トーマス/クレイグ・チャキーソ/ドニー・ボールドウィン、それに対して従来通りのコアなロック・ファンにアピールしたいと考えるポール・カントナー/ピート・シアーズ/ディヴィッド・フライバーグの2派に別れ、最後の切り札を握るのがグレイス・スリックという構図となりました。

(3)ポール・カントナーの脱退からスターシップへ

1984年の「ニュークリア・ファニチェア」は当時最新のエレクトロ・ポップを大幅に導入し、MTV時代に生き残るためのスタイルを受け入れようと考えたスリック/トーマスがバンドの方向性を握るようになります。

それに対してカントナーは激怒しました。もはや主導権を取れなくなったカントナーはあと1枚アルバムを作成して解散させようとしましたが、残りのメンバーは存続を要求します。結果としてカントナーは脱退し、残ったメンバー達に「ジェファーソン・スターシップ」の名前を使わないように訴訟をおこします。その訴訟の結果として、スターシップへバンド名を変更します。

(4)スターシップとその解散

スターシップは、新たにRCAと4枚のアルバム制作の契約を結んで再出発しました。
バンドは当時先端のサウンドを全面的に取り入れ、マーティン・ペイジによるシングル「シスコはロックシティ」はエアプレイン時代から通算してもシングル初となる全米1位を獲得しました。

外部ライターの楽曲を中心に、完全にマーケティング主導型の制作をするコーポレート・ロック体制に変更し、ファン層は入れ替わりました。「セーラ」、「愛はとまらない」の2曲も全米1位となりました。

1988年に年齢と音楽性の不一致を理由に、ジェファーソン・エアプレイン時代から在籍した最後のメンバーである、グレイス・スリックがライブ活動からの引退を表明、そのまま脱退してしまいます。

中心メンバーがミッキー・トーマスとクレイグ・チャキーソだけになったバンドは、メンバーを補充しながら活動を継続し、アルバム「ラブ・アマング・ザ・カーニバルズ」を発表しましたが、以前のように高い評価は得られませんでした。

1989年にツアー中にミッキーとドラムのトニー・ボールドウィンが殴り合いの喧嘩となり、ミッキーが負傷するという事件が起きました。即座にトニー・ボールドウィンを解雇して、ツアーメンバーを加入させましたが、1990年に最後まで残っていたジェファーソン・スターシップのオリジナルメンバーであるクレイグ・チャキーソが脱退し、ついに1991解散しました。

(5)グレース・スリックのその後

ポール・カントナーが再結成したジェファーソン・エアプレインに参加し、一枚のアルバムを出すもその後活動停止になりました。それを期に音楽業界からは引退し、現在は画家として活動しているとのことです。

引退の理由は主に年齢を考えてのことで、「年寄りは、ロック音楽のステージに上がるべきでない」との信念からとのことらしいです。

なお、1990年以降は、ポール・カントナーが結成した新生ジェファーソン・スターシップとミッキー・トーマスが復興させたスターシップという2派に分かれ活動しています。

しかし、女性ロック・アーティストの草分けの一人であるグレース・スリックに焦点をあてるという主旨なので、詳細は割愛させていただきます。

②ディスコグラフィー

(1)ジェファーソン・スターシップ

1974年 ドラゴン・フライ
1975年 レッド・オクトパス
1976年 スピットファイヤー
1978年 地球への愛あふれて
1979年 フリーダム・アット・ポイントゼロ
1981年 モダン・タイムス
1982年 ウインド・オブ・チェンジ
1984年 ニュークリア・ファニチェア

(2)スターシップ

1985年 フープラ
1987年 ノー・プロテクション
1989年 ラブ・アマング・ザ・カーニバルズ

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